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22/10/15●「燃える闘魂」アントニオ猪木さんへの哀悼原稿(夕刊フジ掲載)を載せます

 予想はしていたとはいえ、訃報はやはりショックでした。私の恩人であり、私の人生をある意味でつくってくれた人でした。訃報後、テレビや新聞でインタビューに応え、夕刊フジには哀悼文を掲載してもらいました。

 その原稿を、ここに全文掲載します。

 なおその後、「ヨミドクター」にも寄稿しましたので、併せて読んでいただければと思います。

 

[ヨミドクター]「追悼」アントニオ猪木 自分を演出し続けた受け身の達人…プロレス人気を最高潮にした男

   https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20221012-OYTET50001/?catname=column_fuke-takashi

  

[夕刊フジ]哀悼「燃える闘魂」アントニオ猪木

 101日、早朝の訃報に、正直、本当にお疲れさまと合掌しました。いまも耳の奥で、「元気ですか!」の声が聞こえます。

 918日、「腰が痛くてたまらないので、専門の先生を連れてきてくれませんか」と電話があり、専門医と訪問したのが最後の別れになりました。ベッドのリクライニングを上げ、つらそうな表情は少しも見せず、「いや、よく来てくれました」と-----。もう、痛みを和らげるほか手の施しようがないことを、本当に悔やみました。

 

  猪木さんが、数万人に1人という「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」を患っていると知ったのは4年前です。タンパク質線維が心臓に沈着して、多臓器不全などを発症するという難病で、不治の病です。

 猪木さんの場合、とくに腰に激痛が走るようで、よくその痛みに耐えてきたと思います。心臓も冒され、腸捻転なども発症し、入退院、リハビリ、温泉治療などを繰り返し、最近は寝たきりでした。

 それなのに、8月末には『24時間テレビ』に車椅子姿で出演し、SNSでは闘病生活を公開してきました。なにもかもさらけ出し、その姿をファンに見てもらう。それが彼の生き方で、けっして飾ったりしない性格に、私も半世紀にわたって惹き込まれてきました。

 

 リングドクターをした経験から言うと、猪木さんほど怪我に縁遠いレスラーはいません。プロレスでは、相手の技をまともに受けていては体が持ちません。そこで、レスラーたちは技(わざ)を巧みに交わす技術を徹底して磨くのです。一言で言うと「受け身」ですが、猪木さんは、この受け身が天才的にうまかった。対戦したレスラーたちが必ず言ったのが「猪木には技がかからない」です。

 猪木さん自身もそのことを知っていて、弟子たちにその技術を教えていました。そんななかで、「私に匹敵するのは佐山聡(初代タイガーマスク)だけだ」と言っていたことを思い出します。

 

 レスラーは、一般人に比べ、カルシウム、無機リン、アルカリフォスターゼなどの数値が高く、猪木さんもそうでした。そのため、新陳代謝は活発で、回復力は早いのです。それなのに、最後に難病に罹り、それだけは技を交わすようには交わせませんでした。

 じつは昨年暮れ、2度、猪木さん宅を訪ねて様子を診たのですが、医者の直感からして長くはないと思い、胸に熱いものがこみ上げました。もちろん、誰にも話さずに来ましたが、あれから1年弱、本当によく頑張ったと思います。

 

 猪木さんには本当に世話になり、数々のことを教えられました。病院経営に失敗したさして取り柄もない私に、「先生、プロレスのドクターをしていることを利用してかまいませんよ」と気を使ってくれました。テレビに登場できたのも猪木さんのおかげです。 

 タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、そしてボクシングチャンピオンのモハメド・アリ、柔道王のウィリエム・ルスカなど、数々の名場面を思い出しますが、純粋にプロレスとしての最高の試合は、1988年の横浜文化体育館での藤波辰爾との60分ドローでしょう。

 かつて私は、1年の3分の2は試合に付き添い、全国を回りました。いまでも年に数回は一ファンとして試合を見ます。しかし、そこにアントニオ猪木の姿は永遠にありません。

 
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