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読売新聞ウエブ「ヨミドク」で、『リングドクター・富家孝の「死を想え」』を連載寄稿中ですが、24日に死去したハルク・ホーガンについてと書いて欲しいと担当者から要望があり、思い出をまとめました。 掲載文は、私が送ったものより短くまとめられてあるので、ここでは、原文をそのまま掲載してみます。 なお「ヨミドク」のタイトルは、『追悼 ハルク・ホーガン氏 「超人はぼうぜん自失状態で突っ立っていた」…アントニオ猪木「舌出し失神事件」のリングドクターが語る”現場の真相”』となっています。 https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20250728-OYTET50016/#goog_rewarded “超人”ハルク・ホーガンとアントニオ猪木の忘れられない思い出。71歳での突然死は「早逝」なのか? ホーガンとアントニオ猪木 “超人”は“超人”ではなかった。深夜(日本時間)の訃報に、まずそう思いました。ハルク・ホーガン(本名・テリー・ボレア)を呼ぶときは、必ず“超人”をつけて、テレビの実況中継では「超人ハルク・ホーガン」とアナウンスされていたからです。享年71歳でした。 私は、医者のならいとして、訃報を聞くと必ず死因を確かめますが、報道はみな「cardiac arrest」(カーディアック・アレスト)となっていたので「心停止」。心臓発作、心筋梗塞などによる突然死と思われます。 救急隊が駆けつけたときは、家族に囲まれて息絶えていたといいます。 彼の死に対して、トランプ大統領も哀悼のメッセージを出しました。メディアも大報道で、「1人の偉大なアメリカ人レジェンドが亡くなった」と伝えていました。彼は、プロレス団体「WWF」(現WWE)のスーパースターであるばかりか、映画やドラマなどにも数多く出演したスーパーセレブでした。 ■■■ ハルク・ホーガンの名を耳にして、私が真っ先に思い出したのは、1983年6月、蔵前国技館でのアントニオ猪木との対戦での「舌出し失神事件」です。 当時、私は新日本プロレスのリングドクターをしていたので、リングで脳震盪を起こして倒れている猪木さんに駆け寄り、すぐに脈をとって、血圧を測りました。 血圧はそれほど下がっていたわけではなく、頭の外傷もたいしたことはありませんでした。しかし、失神しているので、これは「これはまずい」と担架に乗せ、救急車を呼びました。場内は騒然とし、メディアも大騒ぎ。その後、テレビニュースも一般紙も大きく報道したので、プロレス史に残る事件と言っていいと思います。 ただし、私は「これはまずい」と感じながら、どこかで「猪木さんの思う壺ではないか」と思ったのです。猪木さんは人気レスラーなのはもちろんですが、それ以上にショーマン(興行師)であり、エンターテイナーだったからです。 アントニオ猪木「舌出し失神事件」
■■■ プロレス団体のトップレスラーが、練習、稽古風景をメディアに公開したのは、新日本プロレスのアントニオ猪木が最初です。こういう演出で、猪木さんはプロレス人気を盛り上げていきました。 そして、「世界中にあるベルトを統一する」ということでIWGPリーグをつくり、その優勝戦でホーガンと対戦したのです。当然のことながら、IWGPは「猪木の、猪木による、猪木のためのもの」と言われましたが、その優勝戦で失神KO負けしたのです。 私は、あのとき猪木さんがどう思っていたか、亡くなるまで聞いたことはありません。ただ、失神しながらも「シメシメ」と思っていたと確信しています。 思い出すのは、ホーガンの慌てようです。まさかという表情で、茫然自失状態で突っ立っていました。 ■■■ ハルク・ホーガンは1980年に来日し、当時、新日本プロレスがWWFと提携していたので、その後は、日本を主戦場にしました。猪木さんの「NWF王座」の挑戦者となったり、タッグを組んだりして、あっという間に人気者になりました。 南国フロリダ育ちで、高校時代はボディビルをやり、大学時代はロックバンドをやっていました。プロレスのファンだったので、当時のスーパースター、ビリー・グラハムの門を叩きましたが断られ、独力でデビューして、アラバマやテネシーなどのローカルで活躍していました。 それを、レフェリーのタイガー服部さんと猪木さんが日本に引っ張ってきたのです。日本に来た当時は、格闘技の経験が浅く、猪木さんは「なんもできない木偶の坊ではないか」とぼやいていました。しかし、覚えは速く、あれよあれよという間に本格的なレスラーになりました。 往年のファンなら右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズを覚えているでしょう。あれをやり出したのは来日2年目のこと。リングコスチュームも黒のショートパンツに白字で「一番」と書いたものにし、それが評判になると、「一番」のロゴ入りのタンクトップやTシャツ、ハッピもつくりました。 ■■■ ハルク・ホーガンの決め技は、「アックスボンバー」でした。右腕をL字型に曲げ、「ラリアット」(スタン・ハンセンの決め技)のように肘を相手に叩きつける技です。これは、たしかマサ斎藤さんがホーガンのためにと考えた技です。 猪木さんの「卍固め」「コブラツイスト」とホーガンの「アックスボンバー」の子弟タッグは、当時の最強タッグでした。子供たちは、リングサイドやテレビの前で熱狂し、学校ではプロレスごっこをやる。プロレスにとっては、本当に幸せな時代でした。 そんなとき、人気テレビドラマ『超人ハルク』主演のルー・フェリグノと一緒に写真を撮る機会に恵まれ、ボディビルダーのフェリグノより巨大な肉体が評判を呼びました。 それで、ネックネームを「ハルク」にしたのです。 日本で大人気になったハルク・ホーガンは、その勢いでアメリカに戻り、WWFのチャンピオンとなって、全米のスーパースターになりました。ただ、向こうでのレスリングのスタイルは、日本でのものと違っていました。適応力がすごいのです。 ■■■ 71歳の突然死ですから、「早すぎる」という声が聞こえてきます。しかし、冷静に考えると、そうは言えないのです。 一つは、アメリカ人の平均寿命が、日本人に比べて圧倒的に低いからです。米疾病対策センター(CDC)のデータによると、男性は73.2歳、女性は79.1歳(2022年)で、男女平均76.4歳です。これに対して、日本人は、女性は87.1歳で男性81.1歳(2025年7月、厚労省発表)なので、「早すぎる」と感じてしまうだけなのです。 アメリカは人種のるつぼであり、多民族共生の国ですから、人種によっても平均寿命が違います。白人は76.4歳、黒人は70.8歳、アジア系は83.5歳、ヒスパニックは77.7歳、先住民は65.2歳です。 ちなみに、ハルク・ホーガンは白人ですが、父方のルーツはイタリア、パナマ、スコットランド、フランスの混血であると、プロファイオに書かれています。 ■■■ もう一つ、「早逝」ではないと言えるのは、レスラーは一般的に早死にだからです。 猪木さんの場合は、79歳まで生きられたので、早死にとは言えませんが、有名レスラーの多くは早死にです。 ジャイアント馬場(享年61歳)、ジャンボ鶴田(享年49歳)、ブルーザーブロディ(享年42歳)、三沢光晴(享年47歳)、ディック・マードック(享年50歳)、橋本真也(享年40歳)、冬木弘道(享年43歳)-----挙げていくときりがありません。 レスラーに限らず、アスリートは早死にする人が多いのです。とくに、力士はおしなべて早死にです。これは、競技のために常に体を鍛え続けた結果、一般の人より早く、「生命的な限界」に達してしまうからだと、私は考えています。 私は、学士時代に相撲をやり、後年、母校の相撲部の監督をやり、ボクシングやプロレスのリングドクターを務めました。その私の経験から言うと、レスラーや力士の短命は偶然の結果ではありません。 ■■■ レスラーは日ごろ鍛えた強靭な肉体の持ち主ですから、ちょっとやそっとのことでは死にません。しかし、競技に適した体づくりのための飲食と運動は、歳を経るにしたがい響いてくるのです。 一般的にレスラーを含めたアスリートの死因の多くは、心疾患です。がん死は少ないのです。このことが、それを物語っていると思います。 私は、1981年から十数年間、新日本プロレスのリングドクターをやり、多いときで年間180試合のうち120試合ほどに帯同して地方を回りました。 地方の巡業先では、レスラーたちと飲食をともにしました。その飲食は「暴飲暴食」と言っていいもので、それがたたって後年糖尿病になり、狭心症も患って、これまで3度手術しました。猪木さんも糖尿病になり、生涯治療を続けました。 現在、78歳になってなんとか生きながらえていますが、糖尿病と狭心症の悪化には細心の注意を払っています。食生活のバランスを保ち、薬を飲み、定期的に検査を受けています。 そしてつくづく思うのは、若い頃からの生活習慣は本当に大事だということです。 |